阪神淡路大震災のこと

平成7年1月17日午前5時46分。
当時、大学の4回生だった私は、京都市左京区蓮華蔵町の下宿で風呂に入っていた。
何故、そんな時間に風呂に入っていたのか。
卒業試験の勉強を夜通しやって、なんとか目処もついたんで、風呂に入って一眠りしようとしていたというのが、公式のコメントだった。しかし、実は、このころ、もう単位は揃っていたので、勉強はしていなかった筈。うちの学部は卒論もなかったし。
実際は、夜通しパソコンゲームをやっていて、そろそろ眠くなったんで、風呂に入って寝ようとしていた・・・というのが正解。(だったと思う。もう、あまり定かじゃないな。)
あと数ヶ月で社会人になるとのことで、自堕落でいられる最後の時間を、思いっきり自堕落に過ごしていたのだ。(というような気がする。)
京都は震度5とのことであったが、正直、そんなに深刻な揺れは感じなかった。
もういい加減眠かったせいもあったろうが、揺れ始めたとき全く気付かず、その後、グラグラしてると感じたときには「やっぱ、徹夜するとちょっと眩暈がするなぁ。」と本気で思っていた。
「あれ?地震かな?」と思ったのは、湯船に浸かりながら、リビング*1の照明が大きくゆらゆらと揺れているのに気付いた時である。
「まぁ、水回りは頑丈に出来てるらしいから、風呂に入ってる分には大丈夫だろう。」と揺れてる間、入浴し続け、揺れが収まってから体を拭いて、部屋に戻ってテレビをつけた。
今でも覚えているのは、各地の震度が入った関西の地図の中で、豊岡と京都が震度5だったこと。・・・そして、神戸の震度が空白で数字が入っていなかったこと。
「えらい長い地震やったなぁ。」と、私が呑気に思っていた間に、淡路や神戸、三宮、伊丹なんかは、とんでもないことになっていたのである。
そんなことには全く気付かず、私はベッドで寝てしまった。
私がその惨状を知ったのは、3時間ほど後のこと。
実家の母から電話で起こされたときである。
「あんた、大丈夫やったんねぇ。ぜんぜん電話がつながらんかったし。」母の心底安心したという声。
「なにが?」と寝惚けた声の私。
「そっちは凄いことになっちょるやないね。テレビつけてみんね。」
・・・ひっくり返った高速道路、潰れた伊丹駅、ヘリからの空中撮影は火の手が上がる町並みを映していた。画面には9:15とLIVEの文字。
とにかく、私は無事であることを告げ、母からの電話を切り、ポンチー研の奴らに電話した。記憶が曖昧だが、割合と短時間で、お互いの無事を確認できたように思う。
夕方になって、一本の電話が入った。
「○○さん(私のこと)、Sです。」電話の声の主は、神戸大学に通う後輩だった。
彼は、スキーに出掛けていたため無事だったが、大家さんに電話すると下宿は潰れてしまっているとのことで、行くところが無いとのことだった。
京阪丸太町駅まで迎えに行き、我が家に泊めることにした。
聞けば、下宿は完全に倒壊し、もし、スキーに行ってなかったら死んでいたかも知れないとのことだった。彼は、辛くも難を逃れたのだった。
それから3日間ほど、我が家にいたが、授業再開の目処が立つまで一旦実家に帰るとのことで、福岡へと帰っていった。
10年前の私の周囲の顛末は、こういったものだった。
一方、平成7年1月17日のこのとき、将来私の妻となる女性は、こんな感じだったらしい。
「本棚から、本が落ちてきてな。ポンチョ*2が階段駆け上がってきて、ドア開けたら跳び付いてきたんよ。そして、ブルブルブルブル震えてなぁ。あのときは、あと30秒揺れとったら、家潰れとったと思うわ。長かったなぁ。あの時は、自然には、人間はかなわんとほんとに思うたわ。人間の傲慢に地球が怒ってると思うたなぁ。私それだけは印象に残ってるんよ。」
彼女は兵庫にいた。震度は6の地域である。

*1:・・・てワンルームなんだけど

*2:当時、カミさんが飼っていた犬、スピッツシェルティのハーフの♀